
知る
2022.05.09
上野の駅前周辺に旅館ができ始めたのは、上野?熊谷間の鉄道が営業を開始した明治期に遡ります。上野の旅館の歴史について、上野ホテル旅館組合の組合長・渡辺定利さんに伺いました。
山田:このあたりでいちばん古くからある旅館というと、どちらになるのですか。
渡辺:井筒屋さんは今、「COFFEEリーム」ですし、古くからの旅館はほとんどなくなってしまいましたね。今うちは、「ホテルニューウエノ」ですが、もともとは料亭旅館「上野亭」です。開業年月は1934(昭和9年)6月19日と、1949(昭和24)年8月31日現在の旅館調査表(※1)に綴られていますので、わかる範囲では、このあたりでいちばんの古株かもしれません。
今回、取材の依頼をいただいて、上野の旅館に関する資料を見せてほしいといわれて、自分でも興味が湧いて調べてみたわけですが、正直、こんなにいろいろ資料が出てくるとは思わなかった。いろいろわかってきて、びっくりです(笑)。先程お見せした霜鳥貞治さんの「駅前旅館風雪百年」という記事によると、上野に旅館が建ち始めたのは、日本鉄道会社が上野?熊谷間の営業をスタートした1883(明治16)年頃。当時は上野駅の駅前を中心に「井筒屋」「ゑびす屋」といった旅館が数軒点在するだけでしたが、鉄道が高崎、前橋、宇都宮へと伸びていくに従って、旅館の数が増えていったようです。明治中頃から大正期にかけては、上野公園で勧業博覧会や大正博覧会、平和博覧会といった博覧会が次々と開催されたことから、上野一帯が賑わい、旅館もずいぶん増えて活気づいたとあります。
でも、1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震災で、ほとんどの家屋が倒壊、火災が発生したことで壊滅的な打撃を受けた。上野駅も焼け落ちて、人々は火の手から逃れるために上野公園に逃げたそうです。一帯は焼け野原となり、その後、復興が進み、上野駅も建て替えられて、今の駅舎ができて、周辺にも活気が戻りました。しかし、それもつかの間、1929(昭和4)年に起きた世界恐慌の余波による昭和恐慌で、上野駅の利用客が減り、“東京の北の玄関口”とは思えないほどの寂しさだったと。当然、旅館への客足もめっきり減って閑散としていたそうです。
その後、戦火が激しくなると、再び客足は遠のき、上野の旅館も下降線をたどり始めます。戦争末期にかけては、再三行われた焼夷弾による東京への空襲でほとんどの旅館が焼失してしまい、上野は再び苦難の時期を迎えます。
山田:紆余曲折、いろいろあったのですね。
渡辺:こうして調べてみると、古い時代から歴史を刻んでいるというのは、時代を超えて、今と昔がつながっているのを感じます。先代がその時代に何をしたかを知ることは、これから先、何をしていくか、何をしなければならないか、を考える際のヒントになる。今後、上野がどういう形で展開していくにせよ、できる限りのことはやっていきたいという思いはありますね。
(つづく)
※1、3今回の取材で掘り起こされた、組合所蔵の資料。
※2 現在工事中の、JR上野駅公園口近くの工事現場の囲い壁面に描かれた錦絵。人々が足を止めている。
[第1回:上野ホテル旅館組合の創立と活動]
[第3回:上野の旅館業の変遷?その2]
[第4回:上野の変化とともにあるホテル旅館業]
[第5回:2020年東京オリンピック後の上野に向けて]