2016.01.15

Special Interview「上野のれん会、山と街と共に」

[第1回:上野のれん会誕生とその理念]

●上野のれん会会長 須賀 光一さん
●聞き手 佐藤 輝光(松坂屋上野店)

半世紀にわたってタウン誌「うえの」を発行し、上野の文化を伝え支えてきた、上野のれん会。その誕生の経緯と活動内容・理念について、上野のれん会会長の須賀光一さんにお話を伺いました。

■上野のれん会、誕生

佐藤:上野のれん会は、どういう経緯で設立されたのですか?

「うえの」創刊号

須賀:もともと上野のれん会は、1959年(昭和34年)に私の父である先代が発足した会です。当時はまだ敗戦の影が残っていた時代で、上野公園の西郷さんの銅像の下には、靴磨きの子供たちがいました。敗戦後の混乱の時代、上野には怖い、危ない街というイメージが一方ではあったのもいなめませんでしたが、実際はアメ横があって、商業が活性化していたし、山は一大文化ゾーンで、昔からある東京国立博物館、国立科学博物館に加えて、1961年(昭和36年)には東京文化会館も造られました。まだモノがなくて、満足に食べられない時代に、バレエやクラシック音楽を提供する文化ゾーンを造ったわけですから、先人の発想はすごいと思います。そういう中で、山の文化と街の活性化を縦糸と横糸にしてつないでいこうということで創刊したのが、「うえの」だったわけです。

ある程度、上野で長く商売をされてきた方に声をかけて、会員として寄付を募りました。当時、父は” 会費はドブに捨ててくれ”と、ずいぶん乱暴な言い方をしたようです(笑)。要するに、会費を払ったんだから、自分の店の広告をしてくれ、というのではなく、寄付していただいたお金でいい冊子を創り、上野の文化を伝えていくんだと、そういう理念でした。ドブに捨てるというのは、無意味に捨てるという意味ではなく、内容については責任を持って創る、そのものづくりに関する責任は負うけれども、広告効果を期待しないでくれと、そういうことだったわけです。

■上野の文化を伝えるタウン誌「うえの」

創刊号に掲載された、初期の加盟店

佐藤:商店会のような集まりとは、少し趣の異なる会だったわけですね。

須賀:商店街を活性化して、売上げを上げましょうということを主とするのではなく、上野の街としての特徴を活かしていこうと、それには昔の旦那衆の心意気で会費を出していただき、冊子を創っていく、そういうことだったと思います。当時は、この冊子、今の言い方をすれば「タウン誌」を作ることがのれん会のいちばんの仕事でした。今も使用している題字の「うえの」は武者小路実篤さんに描いていただいたものですし、幸田文さんをはじめ、著名な文筆家に寄稿していただきました。写真家では奈良原一高先生東松照明先生など創刊号からお寄せ頂いております。また、長くご協力いただいている著名な方々の中には、まだ無名だった時代から今に至るまでずっと継続して書いていただいている方もいらっしゃいます。この冊子は、作家を発掘し、これから伸びる若手を取り上げていくんだと、父はよく言っていました。“どこかの本に出た人を載せるんじゃなくて、ここで書いたものが本になるんだ“と、そういう気概を持って取り組んでいましたね。街の皆さんには快く協力していただき、半世紀を超えて56年間、毎月発行し続けてきました。毎月というのは、結構大変な作業ですが、間接的な影響力、効果はとても高いと思います。

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2015年12月号※題字は武者小路実篤作

時代が変わり、会員の方も2代目、3代目になりますので、なかには経済効果を期待する声も出てきて、それを頑なに否定する必要もないので、今は多少、販促的なことも行っています。ただし、冊子の中ではなく、ネットや特別展の企画でチラシを作るといった形で行っています。「うえの」という冊子は、あくまでコンサバティブに昔と同じスタイルを踏襲し、他のメディアで近代的な要素を取り入れていけばいいという考え方です。ある意味、特殊な会ですし、短期的な結果を求められると難しいものがあるので、のれん会とはそういう会だという自負を持っていただき、一つ一つご理解いただきながら運営を行っています。  (つづく)

[第2回:上野のれん会誕生とその理念]
[第3回:輝く文化が集まる街・上野]
[第4回:商いとアート]
[第5回/最終回:人々の想い出に刻まれる場所として]